「死ぬことが怖い。」この恐怖が拭えなくても良い。楽しいことが待ってるから。

生と死

 

「死ぬことが怖い。」こう思う人はどれくらいいるんだろう。

 

さぁ寝るぞ!ってベットで入った瞬間

「このまま息が止まったら、どこに行くんだろう」なんて
生きている間には絶対分からないことが、ふと降りて来る。
脳内にビリビリ響いて、訳も分からない恐怖が寝ること自体を怖くさせる。

呼吸が荒くなることもしばしば。首に手を当て、一体何しているんだろうとすら考えないこともあった。

 

 

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いつから考えるようになってしまったのか。

 

そういえば、死に対して何の抵抗感も無かった小学6年生。

 

「わたしは20歳で死んでもいい。いつまでも若い姿のまま幽霊でいられるから」

「今、校舎が燃えたらどうなるかな」

 

なんて、当時好きだった男友達と2人で、今思えば相当バカなことを語り合った。

 

 

「たくさん肉体がいなくなったら、幽霊がいっぱいになって、見えない空間とかでぎゅうぎゅう詰めになって生活しているんじゃない?」って言ったら、凄く笑われたこともある。

 

「死」の世界は誰も知らない。

 

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キリスト教カトリック家系なので、キリスト教における「死」の考え方を調べた。

キリスト教カトリックの考えにおける「死」とは、霊魂が肉体から離れ神の元へ行くこと、神の元へ「召される」ことだとされる。

人間の肉体とはこの世のもので造られたものであるため、この世にある肉体的、物質的快楽によって満足を得ようとするし、やがては朽ち果て死に至るが、人間の霊魂とは物質ではないので滅びることはない。そして召される霊魂の中で、神を信じ罪と穢れのない霊魂のみが天国に入ることができ、やがて訪れる復活の時を幸福の中で待ち続ける。その天国とは神のいる所で、神の慈しみと愛が満ちている完全な場所。

 

別の次元かどこかに天国は存在して、”また生きる”を始めるのだろうか。

 

わたしが消えても、宇宙が終わらない限り、誰かから肉体は生まれ成長し、誰かと偶然出会って結婚し新しい命を産んでを繰り返す。それか一人を清々しく楽しんで生きた証を残すか。

 

物体はいろんな形を変え、残っていく。

 

魂と肉体は一緒のようで全く違うのかもしれない。

 

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祖父が亡くなった5年前、エンバーミングの技術によって、遺体は凄く綺麗に化粧されていた。

 

顔は真っ白じゃない。綺麗なスーツを着て。凄く格好良かった祖父が寝ていた。

 

まだ呼吸をしているようだった。

 

このまま、スッと起き上がってくるんじゃないか?って。
何となく式場の空気が熱を持っていたのを覚えている。

 

だから近寄れなかった。そこに魂がいないことが信じられなかった。

 

肉体を焼いたとき、初めて泣くことができた。

 

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もう1人の祖父が亡くなった4年前、東京にいたわたしはお葬式に出ることができなかった。

祖父は何年も入院していたのに、病院へお見舞いは行けなかった。

 

免疫力が薬でガタ落ちしている私に、「病院は危険だ」と皆が遠ざけ、
私も行くことを拒んだから。

 

1回行った時、消毒液や何とも言えないツンと鼻を刺す独特の香りに耐えられなかった。

死に顔も見ていなければ、冷たくなった手を握っていない。

祖父母の家に飾られた写真の前で手を合わせても
「あなたの魂や肉体はここにはいないでしょ?まだ病院で寝ているんでしょ?」と淡い期待を抱く。

 

祖父が元気だったころ、一緒にノコギリで木を切ったり、将棋をしたり、祖父母の家に行くために車で迎えに来てもらったり。

昔は当たり前だった遊びが今でもできるって、絶対叶わない日常が頭をよぎる。

 

友人が亡くなったときも、最後の姿を見ていない。未だに受け入れられていない。あの子の姿は、子どものままで止まっている。

 

皆、“天国”へ向かうことができたのだろうか?

そもそも聖書に書かれているだけで、天国は本当にあるのだろうか?

輪廻転生を信じているわたしには謎。

そもそもどうして人間は、地球は生まれたんだろう?

どうして、魂と肉体は一度つながれ、また離れるのだろう?

疑問ばかりが増えて積もり、押しつぶされる。

 

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突然訪れる「死」について考えることは、1日1日を有り難く生きるために必要なことだ。ってどこかで見たことがある。

 

「死」と隣り合わせで1日を過ごしている人もいる。
全く考えずに、今を生きている人もいるはず。

 

ゲームなどで簡単に「死」を連呼する世の中を生きる。

 

ゲームのようにcontinueはできないのに、人身事故で「またか。電車が遅延しちゃう。どうしてくれるんだ」なんて酷いことを口にしたこともあった。
死との瀬戸際の人を商売にしたり、ネタにする人もいる。

麻痺してしまったか、身体に溶け込んでしまったか。

結局、何かしら「死」に直面しない限り、意識はしない。

有難いという意味すら分からなくなった。

 

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大好きな文筆家佐々木ののかさん

 

生きてる意味がわかんないからカジュアルに死にたいの>>>

 

この文章を何度も何度も読んでいる。

ののかさんは生きること、わたしは死ぬこと

 

正反対について書いているのに、何か教えてくれそうな気がする。

生と死は紙一重よりも薄いかもしれないけど、決して交わらない。

 

「やーめた」と言いながら、書き損じた原稿用紙をクシャクシャに丸めてポイってするくらいには、お気軽に死にたいのだ。

 

 

どれだけ楽なんだろう。

 

喉から手が出るほど、欲しくて欲しくてたまらない。
手を伸ばしても決して届かないこの考え。

 

ぐちゃぐちゃと絡まった死への恐怖はほどけない。
どこに行くのか分からない、先の見えないモノに怯え続ける。

死への答えが欲しい。
推理小説を答えから読んでしまう。数学も答えを見てから過程を考えるわたしは
実態のないことが大嫌い。

 

一回の区切りがついた後の世界が分かったら
今の人生をどれだけ謳歌できるんだろう。

「死ぬこと」は怖くない。なんて言えないんだ、わたしには。

 

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せめて、いまを生きる。

 

生活のために、好きなことでも完璧を求めるあまり苦痛になってしまう仕事をして。それでも終わった後に素晴らしい達成感を味わって。四六時中相手を考えて幸せな気持ちになったり、胸が苦しくなって、反応や音信がなくなったら誰とどこで何してるのか不安で不安で仕方ない片思いをして。自分を正当化して言いたくもないことを言って衝突を繰り返して。ほおが痛くなるくらい口を大きく開いて声を出して笑って。嬉しくても悲しくても声が枯れるくらい泣いて。

 

「楽しかったな」と言える人生を送るんだ。

 

「死ぬこと」への恐怖は拭えなくて良い。答えを探して苛立って良い。死の世界を知らなくて良い。

 

恐怖を払えるくらいに楽しいことが待っているから。

 

この世界に産んでくれてありがとう。